第2部 (2).地方の民放局

おさらい

 

 NHKは日本で唯一、複数の地上波根とワークを持つ、日本最大の放送局であるという話でした。 

地方局は何をしているの?

 

 ラジオ局が併設されていればそちらの番組は制作はしますが、テレビ放送での自主製作は、ローカルニュース、ローカル天気予報、ローカルワイド番組ぐらいで、ほとんど東京の番組を流すだけです。事件や事故が起これば取材に行きますが、東京の局も番組ごとに来ています。地方局の取材が放送されるのはニュース番組の時ぐらいです。

 

 地方局は事実上、単なる中継局なのです。テレビ用スタジオも1~2部屋しかなく、スタッフがいて機材・装置があっても東京並みに稼働しているわけではありません。

 

 

地方局への出資者

 

 地方局は地元の有志、地元資本が合同で出資している場合が多いようです。最近では東京の局が出資している局もあるようです。これは、チャンネル数が少なく、割り当てがあると申請が競合し、県知事などが調整にあたるといったパターンが多かった名残です。

 ちなみに、地方新聞社はその県で最初に開局した局に出資していることが多いようです。他に電力会社が出資していたりします。

・地方局の地元での評価

 地方には地盤産業も特になく、給与も安いので、地銀、新聞社と並んで人気はあります。ただし、番組制作をしてる人が少ないので、欠員補充しかなく求人自体がほとんどありません。

・ラジオは自社制作、テレビは番組の買取で始まった。

 ラジオは中継にしても録音にしても番組制作が簡単で比較的安価です。安いのでスポンサーも見つけやすいということがいえます。

 でも、テレビは番組制作に時間とお金がかかり、地方局が自局放映用のドラマやドキュメンタリーを作るのはなかなか大変です。

テレビ放送開始当時、生番組以外では、フィルムに撮ったものを放映するといった感じでした。

日本独特のキー局制度

 

 昭和30年代中頃から、東京のテレビ局が地方局とニュース交換のネットワークを組み始めました。さらに、自局で制作した番組を地方に配給するようになりました。

これが、キー局といわれるものです。ドラマなどを地方局独自に製作するにはお金がかかりすぎるのでシェアしたのです。映画に例えると、東京の映画館が製作・配給会社も兼ねるといった感じです。

 

 このキー局は、戦前、東京放送局、名古屋放送局、大阪放送局を統合してNHKが設立されたことを模したものです。これによってコンテンツの共有化が図られました。そして、キー局システムが東京の放送局を巨大化させる要因となりました。東京の局が巨大化したという意味ではNHKも同じです。

スポンサー付き

 

 アメリカでは地方局が3大ネットワークから番組を買って放送しますが、日本のキー局は電通などを通してスポンサー付きで番組を配給します。地方局のゴールデンタイムはほとんどこのパターンで東京の番組を流します。地方局は実質的に送信所を貸すだけで莫大な利益が出るということになります。

 このシステムが「利権」であり業界の変化を拒む最大の要因です。

 

地方局の経営

 スポンサー付きで番組を放映するので経営は非常に安定しています。将来的にインターネットなどの脅威はあるものの短期、中期的には特別な変化はないと思われます。

 

 ただし、キー局の業績がそのまま影響します。フジテレビの視聴率が下がれば、フジ系の地方局も売り上げが落ちます。TBSの視聴率が下がれば同様にTBS系の地方局の業績が落ちるといった変化はあります。

地方局の将来

 地上波が衰退すれば終わりでしょう。地方局の給与は地方の相場に対して非常に高く、ドラマなどの番組制作のノウハウもありません。後発のネット・衛星などの放送や番組制作会社が現れれば、業務転換も図れないままその多くは倒産の憂き目を見るでしょう。

 現在の地方の放送局はかつての大規模小売店舗法で守られた地方の商店街のようです。そして、その将来は廃止された旧国鉄の赤字ローカル線と同じようになると思われます。

 

 私は、地方局に日本のテレビやコンテンツ制作を引っ張る力はないと思っています。

 

次回はキー局についてです。

・おまけ 放送局の思い出

 昭和40年代ぐらいまで、地方のコンサートでは放送局が協賛することが普通でした。この協賛とは機材の貸し出しのことです。当時、高価で出力が大きい音響装置を持っていたのは、地方では放送局ぐらいしかなかったからです。機材だけでなくオペレーターとして放送局の職員の派遣されていました。やはり日曜日、小学生だった私は、父と市内のコンサート会場に連れて行かれ、機材運びを手伝わされました。コンサート中はミキサー室の中や会場下の音響機材のところで過ごし、片付けを手伝って帰りました。

 演歌の歌手が多かったと記憶していますが、最後にやらせの花束をもらうのがお約束だったとことを強く記憶しています。

 ちなみに、トラックを仕立ててコンサート機材を地方に運ぶようになったのは昭和50年代ぐらい以降の話です。