東京新聞「トリチウムは自然界で有機化する」

■ニュースメディア

東京新聞

 

■ニュースタイトル

「トリチウムは自然界で有機化する」

 

■ニュース掲載・報道日

2018年9月26日

 

■フェイク理由・ソースURL・その他

引用元の田中優氏の『「水俣病」のメカニズムで「トリチウム」が世界を汚鮮する』を、化学的検証もせずに鵜呑みにして配信したのだろうが、少し科学の知識があればデマと分かるフェイクニュースである。この程度のお粗末な知識しか持たない記者が書いた科学技術関連の記事は、信頼性が皆無と云える。

 

■検証記事

-----------------  Ⅶ章 トリチウムの環境動態と人体影響

Ⅶ‐3トリチウムの環境動態

Ⅶ‐3・9トリチウムは環境中で濃縮されるか:

 トリチウムに生物濃縮はあるか

 

Ⅶ‐3・9・1生物濃縮とは

 生物に取り込まれた放射性物質が、生物の体内で濃縮されることを“放射能の生物濃縮”という。自然界では、わずかな濃度であっても、生物が必要と必要でないにかかわらずその物質を体内に取り込むこむことにより、体外の自然環境中の濃度に較べて高い濃度になることを生物濃縮という。原子炉などで人工的に作られる放射性物質で有名なものにヨウ素131、ストロンチウム-90やセシウム-137がある。ヒトなど哺乳類で、ヨウ素は甲状腺に、ストロンチウム90は骨に集まり、セシウム137は筋肉に集まる。これらの放射性物質は、その化学的に身体の特定の場所に集まる性質をもっている。そのために、甲状腺がんや白血病の原因になり、原子力開発のもたらす危険として恐れられている。

 

 Ⅶ‐3・9・2 トリチウムに生物濃縮はあるか

 

 トリチウムでもこのような濃縮が起こるであろうか。

(中略)

 以上のように、トリチウムがトリチウム水として、体内に摂取された場合には、トリチウムが体内の特定の場所に集まることはない。しかし、トリチウムが生物の体内で、特定の場所に集まりやすい性質をもつ有機化合物に結合している場合は別である。例えば、DNAの材料であるチミジンに結合したトリチウムは細胞増殖が盛んでDNAが盛んに合成されている骨髄、胃腸管、脾臓などに集まりやすい。では、有機結合型トリチウムを含んだ食べ物を長期間にわたって食べ続けたら、体内のDNAに結合したトリチウム濃度は高くなる一方かというとそういうことにはならない。DNAが盛んに合成されるということは、逆に盛んに分解されるということでもあるので、トリチウムの濃度はある限度以上にはならない

 

-------------  引用終わり

 

トリチウムについては上記の通りですが、比較の対照とされた有機水銀による水俣病についての考察を付記します。

化学工業界に4000億円以上の損害(最終的な負担者は最終製品を購入する消費者)を与えたのも、存在しない第三,第四の水俣病を報じたフェイクニュースだったのです。

■参考資料

-----------------------------化学 1993年7月号

水銀電解法の消滅とその背景 

岡崎達也 [徳島大学名誉教授/触媒化学工竿〕 

 

 化学工業技術は日進月歩,過去の化学技術はすべて"消え去った化学技術"であり,痕跡すら残していない。それらはいずれも、経済性,生産規模,製品規格などの要求に応じ"経済原則に従って消え去った"といえる。しかし、なかにはそうとばかりいえない例外的な場合もある。その一つがここに紹介する日本のソーダ工業技術における「水銀電解法」である。では、なぜ日本においてのみ水銀電解法が消え去っていったのであろうか・・・・。

 

特異な日本のソーダ工業

 現在の日本のソーダ工業は,生産力,技術力ともにまさに世界のトップレベルに逮しているといえる。1992年度における世界のカセイソーダ主要生産国19か国の生産能力と製法別能力(%)を見ると(表1),日本は生産能力ではアメリカにつぐ2位グループ4か国一つである。そして技術的には,最先端技術のイオン交換膜法(IM法)が全生産能力の82%を占め,水銀電解法(M法)は0%.アスベスト隔膜電解法(D法)が18%である。これを世界全体の平均値,M法33.9%,D法44.5%,IM法20.5%と比較すると, IM法が格段に多く,特異的である(図1)。

 

 ここで日本のソーダ工業の発展の跡をふりかえってみよう。日本にソーダ工業が初めて導入されたのが1881年である。当時,欧米ではアンモニアソーダ法(ソルベー法,Solvay,1866)が主流であった。しかし,日本は技術情報の不足から,旧式のルブラン法(Muspratt,1823)を導入した。そのため,その後のソーダ需要の90~95%を輸入に頼らざるをえなくなった。そこへ第一次世界大戦が勃発し(1914年),ソーダの輸入が途絶してしまい,国産の必要に迫られることになった。そこで1915年にD法(隔膜法,Brauer,1888)が導入され,1916年にM法(水銀法,Castner,1892 ;Kellner, 1895)が国産技術により工業化された(電解法のなかではD法が1950年までは主流であった)。さらに1917年にはアンモニアソーダ法が導入されて三製法が競いあったが,カセイソーダ需要の伸びに比べて塩素需要が伸びなかったために,第二次世界大戦前後にはアンモニアソーダ法が主流を占めていた。第二次世界大戦後,1950年から炭酸ソーダと塩安を並産する塩安ソーダ法としてアンモニアソーダ法の開発が進められたが,塩化ビニル樹脂需要の急増により塩素需要が急増したために,塩素を生産できないアンモニアソーダ法は衰退し,通産省の技術指導(1961)により,M法(水銀法)への転換が1967年に完了した。

全盛を誇っていた水銀法

  M法(水銀法)D法(隔膜法)の優劣は1950年ごろまでは明らかではなかった。M法D法に比べて電力原単位が高く,建設費も高い。しかし一方で,製品カセイソーダの濃度,純度がともに高いという特徴がある。そのため,高濃度・高純度を要求する化学繊維工業の飛躍的復興とともに需要が急増し,1950年を境にしてM法が優位となった.その後,金属陽極の開発による電解電圧の低減化,電解槽容量の大型化,耐食性材料開発などの技術開発がなされ,効率化,合理化の努力によって電力原単位,水銀原単位を低減させた.その結果,M法による生産量は1950~71年の21年間に年率平均19%の増大を続け,製法別生産量は29.6%から95.7%に拡大し,まさにM法(水銀法)全盛の時代となった。日本のカセイソーダ生産能力と,製法比率の1942~92年の間の推移を図2に示す.50年の間に,主流製法がおおまかに,ア法D法M法IM法と転換していった経過が見られるが,途中に,技術進歩の流れから見て不合理なD法M法の逆行転換の一時期(1976~84)があったこと,また世界的に今なお現役であるM法が日本では1985年以降に消滅したことが不思議に思われる。

広がった水銀への恐怖と化学企業への憎悪

 石油化学工業の勃興,急速な展開,経済の高度成長にともなって,電解塩素の大量消費の道が開かれた。塩化ビニル樹脂,塩素系溶剤,漂白粉,除草剤,上水道滅菌用,繊維工業,製紙工業の漂白用などである。カセイソーダの用途も,化学工業,化学繊維のほかに,紙パルプ,アルミ,セロファン,、石鹸洗剤,染料,無機薬品と増大していった。しかし,1950~60年代の高度経済成長の好況のなかで,国民はそれにともなって生じた歪み・弊害に目を向けはじめていた。

まず1953年末から,後に熊本水俣病といわれる悲惨な奇病が現れた。その原因が究明された結果,チッソ水俣工場のアセチレン水和反応の反応塔で副生した微量のメチル水銀が工場排水中に混入し,水域にでて,水中微生物から食物連鎖により魚介類に濃縮蓄積されたものを,付近の漁民が大量に反復経口摂取することによって中毒症状に至ったといわれた(熊本大1959,厚生省1968)。さらに1965年に阿賀野川下流域にも有機水銀中毒が発生し,昭電鹿瀬工場がメチル水銀排出源として疑われた。ほかの原因として,当時広く用いられた農薬の有機水銀剤セレサン石灰も疑われたが,それは無視された。そして1971年9月に新潟地裁判決がおりて原告側の勝訴となり,昭電は控訴しなかった。続いて1973年3月に熊本地裁判決がおり,原告側の全面勝訴となった。水俣病の悲惨さと企業に対する厳しい判決の報道は,国民の間に水銀の恐怖と化学企業への憎悪を広がらせた。

同年5月に大牟田に第三の水俣病発生の報道があったが,7月に九州大学医学部により否定された.6月に徳山に第四の水俣病発生の報道があったが,1974年に環境庁により否定された。しかし,誤報であっても,一時的に国民は極度の不安に陥り,魚介類が売れなくなり,漁業関係者にとって大問題となった。6月に厚生省が魚食生活安全指針を発表し,また訂正するという不手際があり,国民の不信感はますます増した。魚介類には元来,自然界に存在する水銀を微量に含んでいるから,その量と比べての過剰量を問題にすべきであるが,当時それは議論されなかった。「魚介類に含まれる水銀はすべてソーダエ場排水中に含まれる水銀による汚染」と受けとられ,国民の非難の目は日本全国のソーダエ場に向けられた。無機水銀が水俣病をひき起こすには,無機水銀からメチル水銀へ変化する化学反応過程の合理的説明が必要であるが,これも無視された

化学工場がどんな公害対策を行っても,汚濁物質を排出して環境を汚染する,という強い不信感が残っており,有機水銀と無機水銀の区別もなく,クローズドシステムも信頼されず,ともかく水銀が工場内に存在することが不可,という非合理的な議論がまかり通って,合理的な議論の場がないという異常な社会的雰囲気であった。

 

 全面転換に追い込まれた水銀法

 すでにソーダ業界は,M法(水銀法)の排水,排泥,排気および製品などに分布する水銀の低減化・回収の研究,工場のクローズドシステム化に全力を注いでいた。そして1974年に全ソーダエ場についてそれを完成させるまでに至っていたが,この努力と成果も無視された。一方ではIM(イオン交換膜法)法が研究されており,M法の次の世代の技術と期待されていた。今日から見れば,D法M法の逆転換ではなく,技術的には"クローズドシステム化"を早急に完成し,IM法の開発を促進する道を選ぶべきであったと思われるが,そうした道は選ばれなかった。

1973年2月,産業構造審議会化学工業部会は,「今後増設する施設は原則として隔膜法など水銀を使用しない方法を採用する」との方針をだし,政府はこれを受けて,"水銀等汚染対策推進会議"第一回を三木環境庁長官を議長として開き,「昭和50(1975)年9月までに全ソーダ工場の2/3を非水銀法に,そして52年度末までには原則として全面転換を行うこととする」と決定した。政府は,当時の漁業騒動および国民生活の不安を早急に沈静化させるために,製法転換の技術的,経済的問題の議論を封じた。

稼働中のM法(水銀法)工場を廃棄し,技術的に劣る旧法であるD法(隔膜法)の工場を建設するという公害対策は,世界に例を見ないものである.政府は,企業に対する厳しい対策を国民に示すことによって,それまでの数かずの公害問題についての政府の失点,公害防止行政の後退に対する国民の非難をかわそうとした空気が一部にあったともいわれる。

自動車工業会は,マスキー法に準ずる自動車排気の性急な規制策の提案に対して,排気処理技術の完成まで政府の規制適用の時期を遅らせ,それが大きな要因となってその後の日本自動車工業の飛躍的発展を成功させた。それと比較して,ソーダエ業に対してとられた上記の公害対策は,はたして妥当なものだったのだろうか。

 当時の企業全般が国民生活の犠牲,人命軽視,環境破壊のもとに利潤を追求し急成長している,という不信ムードのなかで,ソーダエ業が矢面に立たされ,不信,怨念の対象,魔女にされたといえる。転換によって製品は低品位,高コストとなり,化学繊維などの関連工業を含めて国際競争力を失うことは明らかであった。しかし決定どおり,1976年1月には全ソーダ工場の2/3がD法M法の転換を完了した.残り1/3については延期され,1986年6月にすべての転換を完了した。こうして転換を終わってみれば,逆行転換のために10年の年月と4000億円以上の投資を無駄にしたといわれる。

-----------------  引用終わり

ちなみに、欧州では未だに多数の水銀電解法の水銀プラントが多数稼働しています。イオン交換膜法の生産能力が水銀電解法の生産能力を上回ったのは2007年のことです

ちょうど、水銀法を禁止されて逆行転換が行われていた時期に起こったのが「トイレットペーパー騒動」です。「石油ショック(1973,1974~1980年)」による物資不足の噂が原因と言われていますが、逆行転換による製紙に必要な苛性ソーダ(NaOH)の不足・低品位化・価格の上昇も原因となっているのではないでしょうか?

※ 化学を知る知的月刊誌 化学同人発行の「化学」 と 東京化学同人発行の「現代化学」